会社情報
| 会社名 | 有限会社小千谷煙火興業 |
|---|---|
| 所在地 | 947-0043 新潟県小千谷市大字山谷3265 |
| 連絡先 | TEL:0258-82-2065 FAX:0258-82-2080 |
| 代表取締役社長-President | 瀬沼 輝明 Teruaki Senuma |
| 代表取締役日本法人代表代理-CEO'Chief Executive Officer' | 瀬沼 智恵 Chie Senuma |
| 取締役専務-Executive Managing Director | 瀬沼 大 Dai Senuma |
会社の沿革
☆有限会社小千谷煙火興業 沿革
初代 瀬沼兼三郎 (18??〜19??)
頑丈な身体から、当時流行りの人力車営業で、生計を立てる。
サービスの良さから、小千谷の盟主、西脇家(現在小千谷市にある西脇商店)に仕え、江戸に越後上布、小千谷縮を届ける。この時に、江戸で流行りの花火を見物。製作方法も当時の打上人から教えを請う。これを、生家である小千谷市の民家で制作し始める。後に、西脇氏から土地を与えられ(船岡町1、付近に遊郭が存在)、そこで本格的な花火製造を行い始める(明治中期)。なお、人力車営業も好調で、西脇国三郎(明治24年小千谷市長)からの紹介で、久保田右作(第三回衆議院議員)を、永田町へ送り届けたという言い伝え(三代目忠雄談)もあります。
二代目 瀬沼国太郎 (1895明治28年〜1982昭和57年)
兼三郎の一人娘、ツルの婿で養子縁組を行う。兼三郎に修養し、人力車営業を行っていたが、身体の弱さゆえ人力車の継続営業を断念。このとき、花火製作に専念する。
研究熱心の性格ゆえ、火事を起こし、船岡町1の工場から撤退を余儀なくされ、代わりに西脇氏から船岡町3の土地を借り受け、花火製造は継続する。また、花火博士清水教授が東京大学にいると聞けば、借金をしてお金を作って教授に包んで、話を聞きに行った。
全盛期は、昭和の初めから昭和30年代。戦中は、細谷組(現在の細谷火工https://hosoya-pyro.co.jp/)の軍需工場で従事。当時はあまり花火大会自体がなかったため、近県(富山、長野、群馬)に出向いて打ち上げをしていたが、あまり売上はなかったようです。
土浦全国競技大会では、第六回(昭和七年)全國煙火競技大會に「八重芯丁字菊先二化」を出品、その後第七回、第八回(昭和九年)に連続出場の文字が確認できました(土浦市博物館所蔵(煙火打上番組より))。特に戦後は、花火大会がなかったため、越後から遠方、土浦花火に出向いた煙火師の一人と聞いております。
なお、詳細な戦績は、昭和40年代の船岡3での事務所火災により各賞状が焼失し現存しておりませんが、三代目忠雄の話によれば、長野の大会は数々あったが、土浦での成績は確認できなかったとのことです。
三代目 瀬沼忠雄 (1937昭和12年〜現在)
兼三郎9人の子供の次男。長男(清三郎)は海軍で日本海沖で戦士。戦中、長岡空襲(1945年8月1日の日本時間午後10時30分から翌8月2日の午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲で新潟県長岡市の中心部市街地を標的に焼夷弾が大量に投下され、これにより中心部市街地の約8割が焼失し、1470人余りが死亡、罹災戸数は11986戸)を肉眼で目撃し1日の夜は「長岡が燃えている」を実体験した。
小千谷高校卒業後は、国太郎に修業。夏の大会だけでは生活できず、冬季は長野の鈴木氏(花屋鈴木煙火店)に従事した(当時の鈴木氏は、青木氏、藤原氏と並ぶ長野市の名人、後に廃業)。
昭和35年の火薬取締法大改正時から、現在工場のある小千谷市大字山谷に新工場を設立すべく尽力し、また近隣の住宅団地造成も相次いだため、完全に船岡3の工場は撤退。現在に到る。
営業面で優れた才能を発揮し、当初完全に群馬長野勢に押されていた、湯沢魚沼、津南十日町、上越市などを徐々に取り返すとともに、花火だけで生活できるような体制を作り出した。
なお、三代目忠雄の方針として、「自領地は取り返しても、他領地に手を付けず」のもと、他県の大会には一切出場していません。
四代目 瀬沼輝明 (1971昭和46年〜現在)
忠雄の三人娘の次女智恵の婿。養子縁組を行い現在は忠雄の長男。出生は石川県の金沢市で、大学は長岡市にある国立長岡技術科学大学で都市計画専攻研究テーマ交通渋滞対策、英国ケンブリッジ大やオックスフォード大で用いられていたコンピューターシミュレーションソフトを日本の道路環境に併せて運用実験とその効果検証を土木学会等で発表。教授の勧めで大学院に2年通い、「ぜひ助手にも」と教授に誘われたが、直前に現在の妻(智恵)と出会い、花火の世界に圧倒されすぐさま結婚。そのまま忠雄に修養。忠雄とともに正三尺玉製造を行い(乾燥室併用大玉工室を設計)、平成14年に完成。打上も成功した。その二年後中越地震で工場が被災。工場の再築を言い渡され、花火の連接工室三棟、火薬庫二棟の設計を行い施工、竣工させる。
時を同じくして、電気点火の導入もあり、日本製電気点火器具の設計、アメリカfireone firingsystemの導入、Finale3D演出ソフトによるfireone firingsystem連動コンピュータシステムの構築を日本初花火製造会社で行い、2013年は長岡まつりにおいて注目プログラムであるミュージックスターマインを8月3日打ち上げた(8月2日の天地人花火は、花火業界の第一人者、現代の名工:野村花火工業様打上)。「復興祈願花火フェニックス」でも、設計責任者を担当。打上も成功しております。
誰にでもわかる花火、スターマインの説明を確立する。
☆弊社のPR
新潟の空は基本的にグレーです。常に曇りで降水量も多いです。そして夜になっても雲が垂れさがってくるような低い雲に覆われます。よって、花火の星は明るくなければなりません。暗くては見えないとのクレームになるからです。明るい星にするには金属を多用します。当然コストは、通常の星より掛かりますが、避けては通れません。弊社の星は、それぞれの種類が、他の同等種類よりは明るくなるよう製作しています。
仕込みは、基本的に玉皮を半分づつ組立て、両方を合わせて作ります。特別なものについては、窓込め方式を取ります。今現在、多重芯については三重芯変化菊までしか完成しておりません。しかし、さらなる研究により、それ以上の多重芯を量産できるよう準備しております。
スターマインは、PCで設計し、一度演出ソフトで全体をシュミレーションしてから構成を決定します。全体構成は、そのテーマと煙火を組み合わせを選抜して持ち込みます。また、音楽が使用可能であれば、テーマ、煙火、音楽の三連動はもちろん、本来の煙火をより際立たせる演出を心がけます。
大規模な大会での実績は、長岡大花火大会です。
正三尺玉の製造と打上(2025年は8月3日に一日に4発を打上)。
花火大会の千秋楽である尺玉100連発は、15年連続で8月2日、3日両日とも受託。当日の花火玉設計、打揚設計、打揚担当しております(ミュージック連動打上)。
花火の製造工場における事故については、火災は上記のとおり何度か、戦前にはありますが、戦後爆発事故、死亡事故は起こしておりません。
以上が、端的な弊社煙火のPRです。
土浦全国花火競技大会の前身である全國煙火競技大會(第九回昭和10年、それ以降はWW2戦時のため中断)の資料をみますと、五寸五発の部が婿養子である國太郎、大玉八寸の部が、義父(兼三郎)の名で緑芯引先紅青、倅(清三郎、当時13歳(後に戦死、現社長忠雄の兄)の名で芯菊先二化、という風に出場していた事実からも、このエントリーの意味は、「瀬沼の花火を未来永劫、代々継承していって欲しい」とのメッセージだと、婿養子である私は重く受け止めています。
これからも「江戸から続く、夜空への約束」をテーマに伝統と信頼、そして歴史に裏付けられた確かな技術をもって、全世界のみなさまに、「日本の花火は世界平和の象徴」として、花火玉とその花火ショーをお届けします。
また日本には珍しい花火ディレクターとして女性花火師が在籍する、数少ない老舗花火製造販売会社です。